橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

新興チェーン居酒屋の系譜

classingkenji2014-05-31

チェーン居酒屋の先駆者である「天狗」と「養老乃瀧」は、ある時期まで居酒屋界の両横綱とも評されたが、一九九〇年前後から新興のチェーン居酒屋が台頭し、やがて追いつかれ、追い越されていく。その起点は、七三年に一人の男が札幌で開店した小さな居酒屋にあった。男の名は、石井誠二という。
石井誠二は、四二年東京生まれ。自伝『居酒屋の道』によると、中学を卒業していくつかの職を転々としたあと、札幌農学校の基礎を築いたクラークの「青年よ大志をいだけ」という言葉に触れ、とくに当てもなく北海道に渡った。二一歳の時である。列車の中で出会った行商人の女性たちに加わって、行商を三年間続けたあと、養鶏場に勤めて鶏肉加工の技術を身につけ、三〇歳になって雑居ビルの二階に「つぼ八」を開店する。店の面積が八坪だったことから付けた店名である。
開店にあたり、石井はターゲットを若いサラリーマンと女性に絞る。赤提灯とは一線を画し、北欧風をイメージしたレンガ造りのインテリアにした。新鮮なものを格安で提供することを目指し、メニューは一律一五〇円と決めた。店は評判を呼び、さらにオイルショックを境に客が急増した。店舗は順調に増え、八一年には五〇店を超えた。
そんな時、中堅商社の伊藤萬(のちイトマンに改名)から、提携の申し出が舞い込んだ。石井はこの話に乗り、八二年に「つぼ八東京本社」を設立する。つぼ八は全国進出を果たし、店舗を順調に増やしていく。そんな時期、つぼ八傘下に入った二人の若者がいた。「ワタミ」創業者の渡邉美樹と、「モンテローザ」創業者の大神輝博である。
渡邉美樹は、一九五九年横浜生まれ。高杉良の評伝『青年社長』と渡邉自身の著書によると、子どもの頃から起業を志し、大卒後は会計の知識を身につけるため経理会社に入社。これを半年で辞め、運送会社のセールスドライバーとして激務をこなし開業資金を蓄えた。
最初は横浜でライブハウスを開こうと考えていたが、つぼ八に入社していた友人の仲介で石井に会ったところ、石井は即座にそんな店の経営が成り立つはずはないと断言し、つぼ八フランチャイジーになって経営のノウハウを身につけることを勧めた。負けん気の強い渡邉だが、石井の気迫に押され、提案を受け入れる。こうして資本金五〇〇万円で渡美商事(のちにワタミフードサービスに事業継承)を設立し、つぼ八フランチャイズ契約を結んで高円寺北口店のオーナーとなった。八四年五月のことである。
渡邉は不振だった店を立て直して収益を上げ、さらに店を増やしていく。そしてつぼ八とは別に、お好み焼き店「唐変木」を立ち上げて軌道に乗せたところで、提携先の製粉大手から子会社になることを提案される。ゆくゆくは、外食部門全体を任せようというのである。回答期限が迫り、申し出を受ける方向に傾きかけた時、石井から電話がかかってきた。イトマンつぼ八から追放されたというのである。この時の「製粉会社に乗っ取られるな」という石井の忠告が、渡邉を決断させた。のちにお好み焼き事業は暗礁に乗り上げ、最終的には撤退を余儀なくされるのだから、判断は正しかった。八七年一一月のことである(ただし『青年社長』のこのあたりの記述は事実と整合性を欠き、フィクションが含まれているように思われる)。
ワタミが経営するつぼ八は、他店に比べて格段に業績が良かった。このことが、他のフランチャイジーの嫉妬と反感を買った。石井を追放した経営陣は、ワタミへの締め付けを強め、これ以上の出店は認めないと言い始める。渡邉はつぼ八からの離脱を決め、九二年四月に「居食屋 和民」をオープンさせた。居食屋としたのは、居酒屋とファミリーレストランの中間の業態を目指したからである。石井は当時、家族団らんの場所を志向して住宅地の近くを中心に新しいチェーン居酒屋「八百八町」を展開していたが、メニューの構成や店員のトレーニングなどに協力を惜しまなかったという。和民の以後の快進撃は、よく知られているとおりである。
著書があり、マスコミへの露出も多い石井や渡邉と違って、大神についての情報は少ない。以下では、公表されている会社沿革と、大森悟の「居酒屋チェーン戦国史」(『新潮45』二〇〇三年一一月号)をもとに、簡単にその足どりを振り返っておく。
大神は、一九五〇年大分生まれ。高卒後に上京し、歌舞伎町の高級クラブに勤めるが、客の呼び込みで桁外れの成績を上げて認められ、若くして総支配人となる。のちに独立してパブレストラン「モンテローザ」を開業するが、経営に行き詰まって事業を売却し、つぼ八の傘下に入った。八三年に中野店をオープンしたあと、株式会社モンテローザを設立して次々と出店するが、やはり出店をめぐって本社と対立し、つぼ八の各店舗を「白木屋」に切換える。そして若い女性客にターゲットを絞り、カクテルのメニューを充実させて評判を呼んだ。モンテローザのその後の成長はめざましく、次々に新業態を展開しながら店舗を増やし、二〇〇二年には一〇〇〇店舗を達成。最新のホームページによると、その業態は三五種類にも上っている。近年では「女子会」ブームを演出して話題を呼んだ。
石井、渡邉、大神と、新興チェーンの基礎を築いた三人の足跡をみると、彼らが常に新しい市場を的確に発見し、開拓してきたことが分かる。石井は若者と女性というターゲットを、最初に発見した。そして後には、都心ではなく自宅の近くに新しいマーケットが開けると考えて、八百八町を始めた。渡邉は、まさにこの路線にしたがって、まずはつぼ八の店舗を成功させ、そして和民という業態に行き着いた。そして大神は、ターゲットをさらに女性に絞り込む一方で、早い時期から石井と同じように「ビジネスマンのライフスタイルが変わり、都心より家に近いところで飲む傾向が強まっている」(『日経流通新聞』九五年九月一九日)とみて、新業態に力を入れた。
こうしたチェーン店によって、私の愛する古いタイプの居酒屋が圧迫を受けているのは事実と思われるが、新しいマーケットを切り拓いてきたのも事実だから、その役割は認めなければならない。その上で、ワタミモンテローザを含む大手チェーンに一言申し上げたいことがある(長時間労働で「ブラック」と噂されることが多い点については、ひとまず措く)。
コンパなどで集まって飲む時、学生たちはチェーン居酒屋の均一料金の飲み放題コースを設定することが多い。今の学生に、飲んだ分・食べた分に応じて代金を割り振るといったマネジメント能力が欠けている点にも問題はあるが、店の側にも問題がある。飲み放題コースでないと予約を受け付けてくれなかったり、露骨に飲み放題コースへと誘導されるのである。こうして学生たちは、チューハイ・カクテル類、ビール、そしてわずかな種類の普通酒と焼酎だけしか飲む機会を与えられない。これでは学生たちは、酒の旨さを知ることができない。自分で選んでいろいろな居酒屋料理を経験することもない。若者を迎え入れる時、居酒屋は将来の酒文化の担い手を育てるのだということを、肝に銘じてほしいものである。
画像は、石井の社長解任を伝える新聞記事である(「朝日新聞」1987年10月31日)。