橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

浅草「神谷バー」

classingkenji2007-05-07

煮込み通りの次は、やはり、ここ。「浅草一丁目一番一号、日本一古いバー」というのが宣伝文句のこの店は、一八八〇年に一杯売りの酒屋として、一九一二年に洋風の「神谷バー」として、神谷傳兵衛によって創業された。最初は日本酒を出していたが、若い頃働いていた横浜で知った洋酒の味が忘れられず、輸入葡萄酒の再製を手がけ、ここから生まれたのが、糖や香料などが添加された甘味果実酒、そして電気ブランである。後には婿養子をボルドーに派遣してワイン醸造を学ばせ、一九〇三年には茨城県牛久にシャトー・カミヤを建設。甘味果実酒や電気ブランは、ある意味まがい物の洋酒だが、神谷傳兵衛は本格的なワイン醸造の先駆けでもあった。
いま「まがい物」といったが、電気ブランにはカクテルとして独自の意味があると思う。ブランデー、ジン、キュラソー、薬草などをブレンドしているとのことだが、レシピは公開されていないので再現不可能。九〇ミリリットルのグラスを二六〇円で売っているくらいだから、安物の原料を使っているのだろうが、不思議にうまい。神山圭介は、浅草は活動写真やオペラなど、西洋の文化を換骨奪胎して発展させる性格を持った場所であり、電気ブランもそれに通ずると指摘しているが、まさにその通りだと思う。
記録によると、創業当時の神谷バーの客は「五分が職人、あとは商人、腰弁といった顔触れから成り立って」いたが、のちに多くの文人たちにも愛されるようになり、萩原朔太郎などは作品の中にその名を残している。
一人にて酒をのみ居れる憐れなるとなりの男になにを思ふらん (神谷バァにて)
戦前期の東京では、上層階級は銀座、下層階級は浅草と、繁華街の棲み分けが行われていたとはよく指摘される。しかし浅草は、銀座が下層階級を排除していたようには上層階級を排除していたわけではない。川端康成は、添田唖蝉坊の次のような言葉を『浅草紅団』に引用している。
「浅草は万人の浅草である。浅草には、あらゆるものが生のままほうりだされている。人間のいろんな欲望が、裸のまま踊っている。あらゆる階級、人種をごった混ぜにした大きな流れ。明けても暮れても果しのない、底の知れない流れである。浅草は生きている。」
こうした浅草の、そして神谷バーの性格は、今も変わってはいないようだ。現在の神谷バーは、一階がバー神谷、二階が洋食のレストランカミヤ、三階が和食の割烹神谷。一階は大きなテーブルに相席の大衆的な雰囲気で、最初は食券を買い、二回目以降の注文は現金引き換えで席でも受けてくれる。二階はすこし気取った雰囲気になるが、値段は変わらない。三階は一品料理の他、懐石も出す。今日座った一階は、地元の老人たちのグループ、家族連れ、観光客の集団などでごった返している。四人掛けのテーブルに一人客ばかり三人が相席になり、ふとしたことから会話が始まる。一人は亀戸から毎週通っているという六〇代の男性、もう一人は初めて来たという三〇代のサラリーマン風。大好きな店なのだが、遠いのが難点。山手線ができるとき、浅草を通す計画もあったのだが、地元の反対で実現しなかったという。そのために発展が遅れたことは否めないが、山手線が通っていたら、この浅草の文化は保たれていたかどうか。すこし遠い、東京の中の異国として存在するところが、浅草の良さなのかもしれない。(2007.5.5)