橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

「あさひや」「いちふく」

classingkenji2007-01-31

いまは昔、経堂に「あさひや」という居酒屋があったという。インパール作戦の生き残りという店主が、安く美味くをモットーに、焼酎は一六〇円、牡蠣の串焼きが一八〇円など、信じられないくらい安く、しかも美味しい料理を出して、地元の酔っぱらいたちに慕われていた。店主が病に倒れ店を閉めていたときには、常連客が回復を祈る寄せ書きを作り、店の前に張り出していたという。いい話だ。古く落ち着いたそのたたずまいは、粋人たちの愛するところともなり、常連の一人となった浅井慎平は、東京の居酒屋をテーマとした「いいちこ」の連作広告の第一作に取り上げた。
その店の跡に、「いちふく」がある。内装は変わり、当時の雰囲気は知るべくもない。しかし、昔を想像させるものがある。当時ほどではないとしても、この近辺ではずば抜けて安い店である。サッポロ黒ラベルの大瓶が五〇〇円、いいちこと金宮が一杯二五〇円、サワー類は三〇〇円、日本酒(沖正宗)は二合で三七〇円、菊水の辛口も二合で四七〇円。料理のメニューは壁一杯に張り出され、いずれも安い。私がいつも注文するのは、鰺のなめろう四五〇円である。ときどき、夕食の前の一杯に、立ち寄りたくなる。当時を知る人の話を、一度ここで聞いてみたいものだ。(2007.1.31)