チェーン居酒屋の先駆者「天狗」
チェーン居酒屋が花盛りである。覚えきれないくらい多数のブランドを展開する大手チェーンがある一方、わずか一〇店前後を展開するだけの中小チェーンも多い。都心の居酒屋街など、チェーン店でない店を見つけるほうが難しい。
バブル崩壊以降、居酒屋の店舗数と売上はいずれも減少傾向が続いているが、チェーン居酒屋は店舗数・売上げともに、わずかながら増加傾向にある。大手チェーンになると、多様な業態の外食店や給食事業などを展開しているので、居酒屋部門のみの売上が分らない。このため正確なところはつかみにくいが、現在ではおそらく、年間一兆円弱となっている居酒屋全体の売上げ(統計上の分類では「居酒屋・ビヤホール等」)の半分前後を、こうしたチェーン居酒屋が占めるようになっているのではないかと思われる。
チェーン居酒屋の歴史は、もうかなり長くなった。ビヤホールを含めた居酒屋チェーンをビジネスモデルとして確立した立役者としては、「ニユートーキヨー」創業者の森新太郎(一九三七年創業)、「養老乃瀧」創業者の木下藤吉郎(本名・矢満田富勝、一九五六年に一号店)、そして「天狗」創業者の飯田保(一九六九年創業、七七年にテンアライドに社名変更)の三人を挙げればいいだろう。とりわけ、飯田の役割は大きかった。いまあるチェーン居酒屋の原型を確立したのが「天狗」だったからである。
飯田保は一九二六年、日本橋の酒問屋・岡永の次男として生まれた。父は飯田紋治郎という。長男の博は、副社長を経て後継者となった。三男の勤は常務を経て独立し、六七年にスーパーマーケットのオーケーを設立。末弟の亮は食品卸を担当したあと、独立して六二年にセコムを創業。この三人と保が、世にいう飯田四兄弟である。
紋治郎の口癖は「商売とは権利と義務だ」だったという。あるとき亮が、資金繰りに窮した業者からアイスクリームパウダーを安く買い、転売して利益を得たところ、紋次郎は激怒した。「曲がったことをするな」というわけである。戦中・戦後の経済統制のなか、酒問屋はヤミ商売で大儲けすることもできたはずだが、ヤミにはいっさい手を出さなかった。以前からいずれは独立しろと父親に言い聞かされ、その通りに創業者となった兄弟たちは、バブルの時代にも無理な投資をすることはなく、その後の経済混乱を乗り切った。
保は池袋に一号店を出したが、最初はトラブルが絶えない。当時は板前たちが一種のギルド社会に組み込まれ、板前は外部から呼んでくるのが常識だった。ところが、板前たちがいうことを聞かない。そればかりか営業中に酒を飲み、肝心の料理が出てこなかったりする。こうして保は板前制度を廃止し、自前の料理人を育成するとともに、店内での調理作業を簡素化するためにセントラルキッチンを開設した。セントラルキッチンは、一部のメニューについてはすでに養老乃瀧でも採用されていたが、これを全面的に取り入れることにしたのである。
さらに保は、今後の業態のヒントを得るためヨーロッパへ海外視察に出かけ、十数カ国の酒場や大衆食堂を見て歩いた。そして英国のパブやドイツのビヤホールを参考に、天狗神田店の二階に洋風店をオープンする。インテリアはレンガ造りとし、ウイスキーとワイン、そして洋風の料理を出した。七二年のことである。ところが、和風の一階は超満員なのに、二階には客が入らない。ある時、満員で長時間待たされ二階に流れてきた客が、下から料理をもってこいと要求した。言う通りにすると、客は一階の和風料理を肴に二階の洋酒を飲み、満足して帰って行く。そこでメニューを共通にしたところ大評判になり、若者客や女性客が入るようになった。ここに、洋風のモダンなインテリアで、日本酒、ビール、ワイン、ウイスキーと幅広い酒、そして和洋中さまざまな料理を提供する、今日のチェーン居酒屋の原型がここにできあがったのである。
会社は急成長を続け、八六年には居酒屋業界で初めて株式を店頭公開。新聞には「いつまでも天狗でいたい。いつまでも天狗でいない。」と自信に満ちたコピーを掲げた全面広告が載った。九二年には東証二部上場、九五年には一部昇格。バブル崩壊後も勢いは止まらず、株価は九三年に三六七〇円とピークに達した。その後はワタミ、コロワイド、モンテローザなど新興のチェーンに押されて苦戦しているが、今日の居酒屋業界のビジネスモデルを確立した功績は高く評価していい。個人営業の和風居酒屋が普通にワインを出すようになったのも、もとはといえば天狗が原型なのである。
もうひとつ、天狗を高く評価したい点がある。それは、酒がうまいことである。酒問屋出身だけに、保は酒に詳しく、酒の味にうるさかった。こうして天狗は、早い時期から「新政」「月の桂」「司牡丹」などの地酒を低価格で提供するようになった。保はみずからヨーロッパのワイナリーに足を運んでワインを選び、仕入れの交渉までした。バブル期にボージョレー・ヌーボーがブームになった時には、「ヌーボーなんて、あれははっきり言ってうまくない」「有り難がるのは日本人だけ。もっと酒を知らないと世界の笑いものになる」とこき下ろし、天狗ではヌーボーは出さないと公言した(「日経流通新聞』九〇年一一月二七日)。どこの店にもあった国産有名ウイスキーを置かなかったのも、保のポリシーによるものだろう。
天狗は営業時間が二三時三〇分までで、週末であっても深夜営業をしていない。その理由は明快で、会社のホームページの採用情報のサイトには、「従業員の社員・アルバイトの健康管理面を考え、『次の日に疲れを残さないように』との配慮から」「基本深夜営業なし。店舗閉店は二三:三〇。終電で帰宅出来、リズムある生活が送れます」と書かれている。もちろん後片付けや会計処理があるから、全員が終電で帰れるわけではないだろうけれど、長時間労働で「ブラック」と噂される外食産業が多いなか、見習うべき姿勢である。ちなみにテンアライドには、外食産業には珍しく組織率の高い労働組合がある。二〇一三年の有価証券取引報告書によると、組合員数は社員二九九名、パート二二一一名の合計二五一〇名。正社員四一八名、従業員総数四二一九名の会社だから、おそらく管理職を除く正社員の組織率は九割に近く、パートも短期を除くと七割くらいではないだろうか。非正規労働者の増加により組織率が低下する一方の労働組合にとって、モデルとなる例だろう。
ちなみに私自身は、貧乏学生時代によく天狗に通った。バーボンのソーダ割り、スペインやカリフォルニアのワイン、シェリーの銘酒・マンサニーヤ、国産ワインの新酒、「月の桂」のにごり酒など、この店で味を覚えた酒は多い。これから新興チェーンに互して急成長するのは無理かもしれないが、いつまでも業界の模範的な存在であり続けてほしいと思っている。
写真は、「天狗」創業の地である池袋西口店。現在は大衆酒場風の別業態「テング酒場」になっている。