橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

地酒ブームの到来

classingkenji2014-07-28

「地酒」という言葉は、今ではあまり使われなくなった。全国各地に優れた日本酒を造る小さな酒蔵が数多くあることは、すでに常識化している。名の知れた酒も多いし、蔵元と熱心な酒販店などの努力により、少ないながらも全国的に流通するようになっている。だから、地元でのみ飲まれている酒というニュアンスの強い「地酒」という呼び名は、必ずしもふさわしくない。しかし、こうなるまでには長い道のりがあった。
これまで何度か「地酒ブーム」「日本酒ブーム」といわれた時期があったが、その最初のものは、一九七五年前後から始まり、しばしば「第一次地酒ブーム」と呼ばれている。その経緯を振り返ってみたい。
一九六〇年代の中ごろ、高度経済成長で日本酒の消費量も急増し、灘をはじめとする酒どころの大手メーカーが販売拡大にしのぎを削っていた。しかし一方では、全国各地に小さな酒蔵があって、良質の酒を造りながら、あえて級別審査を受けずに二級酒として販売していることが知られ始めていた。
六五年四月一四日の読売新聞の「特級よりうまい?二級の地酒」というコラムは、次のように論じている。全国の酒造業者の八割は地方の中小メーカーである。地元では特級、一級の値段では売りにくいため、はじめから審査を受けない業者がかなりある。つまり「特、一級で十分通用するのに二級で売っている酒がかなりあるということになる」。「地方出張のときなど、せいぜい、安くて、うまい、特級並みの地酒を捜すことですナ」。六六年一〇月二五日の朝日新聞も、こう報じている。消費者の所得が伸びたことで、特・一級酒の消費が伸び、二級酒は伸び悩んでいる。ところが地方の地酒のほとんどは、審査を受けずに二級として売出しており、一部の酒販店や飲食店は、こうした酒に注目して売出し、人気を集め始めている、と。しかし、特定の銘柄が固有名詞つきで紹介されているわけではない。
そんな時期に、新潟・石本酒造の「越乃寒梅」が全国に紹介された。紹介したのは、編集者で随筆家の佐々木久子。長年にわたって雑誌「酒」の編集長を務めたが、一九六七年にこの雑誌で紹介したことで、「越乃寒梅」の名が知られるようになる。おそらくこのことが、のちの地酒ブームの地ならしのような役割を果たした。これに続いて、各地の優れた地酒が、固有名詞つきで紹介され始めるのである。
六八年一月七日には、読売新聞が「地酒のふるさと」という記事を掲載している。登場するのは、宮城の「浦霞」、茨城の「一人娘」、長野の「七笑」、そして「越乃寒梅」。蔵元や杜氏が実名で紹介され、製法や蔵を包む風土などとともに紹介される。今日まで続く、酒蔵ルポのはしりであろう。『新評』という雑誌の六八年一一月号には、「全国地酒四〇六銘柄の総点検」という記事が載った。ここでは地酒のリストとともに、東京で地酒を飲める店が八〇軒近くも紹介されている。すでに閉店した店が多いが、銀座の「樽平」「おば古」「有薫酒蔵」「らん月・酒の穴」、池袋の「田舎屋」、湯島の「岩手屋」、上野の「北畔」など、今も営業する店もみられる。これらの店はもともと、地方新聞社や地方銀行の東京支社が集まる銀座周辺に多いことからもわかるように、故郷の味を求める地方出身者を主な顧客としていたはずだが、この時期から次第に、地酒愛好者たちをも集めるようになっていくのである。
七〇年代に入ると、全国の酒を集めた物産展が開かれたり、デパートの酒売り場が各地の地酒を置くようになる。こうして地酒はマーケットを拡げ始めるのだが、何といっても大きな役割を果たしたのは、酒卸の(株)岡永が始めた「日本名門酒会」だろう。立役者は、社長の飯田博。昨年一二月号で取り上げた「天狗」チェーンの創業者・飯田保の兄で、スーパーマーケットのオーケー創業者の飯田勤、警備サービスのセコム創業者の飯田亮と並ぶ飯田四兄弟の長男である。以下の記述は主に、その著書『名酒発掘物語』による。
日本を代表する酒であるはずの日本酒は、戦中・戦後の時期に三倍増醸酒が主流となり、また全国の消費者を相手に、平均的な好みに合う酒造りするナショナルブランドが市場を支配するようになった。しかし博は、高度成長の終わりとともに消費者の好みは変わり、商品選択が厳しくなると考えた。現に一部の消費者は、独力で好みに合う酒を探し出し、地酒メーカーに直接注文したり、デパートの物産展などで探し出しては買い求めていた。一方で地酒メーカーは、販路の拡大を求めていた。しかし両者は、なかなか市場で出会うことができない状態にあった。
岡永は以前から、秋田の「新政」と高知の「司牡丹」を扱っており、好評を得ていた。その経験をもとに博は、全国の日本酒に関する情報を収集し、現地を訪問して蔵元や杜氏に会い、その地方の風土にも触れた上で、手始めに一二のメーカーを選定し、有志の酒販店を募って、ボランタリー・チェーンとして組織化することにした。単に日本酒の良さをアピールするだけではなく、酒販店の利益を守ること、その力量を高めることにも取り組んだ。知名度の低い日本酒を、消費者に説明し販売していくには、相当の努力が必要になる。しかし、努力の末に評価されるようになった日本酒を、他の酒販店が売りさばいたのでは、努力は報われない。だから一種のフランチャイズド・システムによって商圏を守ることにした。また良い商品は、その価値を知り、価値を損なわず、これを消費者に説明できる店で売られなければならない。だから酒屋は本物のプロでなければならない。だから参加する酒販店とは、時間をかけて理念の統一を図ることとした。こうして一九七五年二月に、日本名門酒会は発足したのである。
販売促進のため、博はさまざまな工夫をした。消費者の目を引く専用の商品棚を作って貸与し、店頭に据え付けてもらう。棚には酒林をくくりつけた。今でこそ、酒屋や日本酒を飲ませる店に酒林を掲げるのは珍しくないが、これは日本名門酒会が始めたことだったのである。また社員やメーカーを動員して、会員店の店頭に一二銘柄をずらりと並べて店頭きき酒会を実施した。消費者をひとりひとり説得するところから始めようというのである。実際に飲んでもらうと、日ごろ日本酒に親しむことのない主婦などが、酒をしっかりききわけるのに驚かされることが多かったという。
日本名門酒会は順調に拡大を続け、八三年までに約八〇のメーカーと、約一六〇〇の酒販店を組織するに至った。その歩みをみれば、ブームというのは決して消費者の気まぐれや風の変化によって起こるのではなく、周到な戦略と地道な努力によって作られるのだということがよくわかる。
上に転載したのは、主要全国紙に全八段で掲載された日本名門酒会の新聞広告である。古谷三敏のうんちく親父のキャラクターが、日本名門酒会加盟店で一升瓶を求めて帰ってきたところを描いている。ちなみに当時の私の自宅近くの駅には、これと同じ絵で、吹き出しに「○○屋につい足が向いてね」(○○屋は近所の加盟店)と書かれた看板があった。当時の勢いがよくわかる。