橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

下田淳『居酒屋の世界史』

こういう本を、誰か書かないかと思っていた。著者は、ドイツの民衆文化史が専門らしいが、その範囲を超え、古代史からイスラム史、中国史、日本史まで文献を渉猟し、居酒屋に関する記述を丹念に拾い上げ、まとめたのが本書。
酒の歴史は人類が文明を獲得するのと同じくらい古いが、居酒屋が成立するのは貨幣経済が発達してからだから、これよりかなり遅れる。それでも古代ギリシャには、すでに居酒屋が存在していた。上流階級は非道徳的として非難したが、下層階級は居酒屋に親しむようになっていった。
発達する中でヨーロッパの居酒屋は、コミュニティセンターとしての多機能性を獲得するようになる。会合や演説会の場所、銀行、裁判所、劇場、音楽会場、郵便局、職業斡旋所など。こうして居酒屋は、ヨーロッパ民衆社会の成立に、大きな役割を果たしていく。ところが近代に入ると、居酒屋は衰退していく。経済発展とともに、居酒屋のもっていた様々な機能が別の制度によって担われるようになり、居酒屋は多機能性を失っていく。さらに科学技術の発展により、酒の保存性が高まり、家でも酒が飲めるようになった。禁酒運動が、さらに追い打ちをかける。
ヨーロッパに比べると、イスラム、中国・韓国、日本の居酒屋についての記述は断片的だが、十分おもしろい。日本の居酒屋について著者が強調するのは、歴史を通じてそれが、ヨーロッパのような多機能性を獲得することはなかったという点である。これには、疑問がないではない。たしかに制度的に保証された多機能性はなかったかもしれないが、日本の居酒屋は人々の交流の場であり、会社の延長、労働組合の延長、町内会などさまざまな地域組織の延長として、実質的には大きな機能を担ってきたはずである。ヨーロッパにはない機能として、女将やホステスによるケア機能も無視できない。こうした日本独自の多機能性を掘り起こすことは、今後の課題だろう。
いずれにしても、酒飲みに豊富な話題を提供してくれる好著である。

居酒屋の世界史 (講談社現代新書)

居酒屋の世界史 (講談社現代新書)