橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

川本三郎『旅先でビール』

川本三郎三人説というのがあるそうな。映画評論、文芸評論、都市論と三つの分野で膨大な数の著作をものにしているので、こんなことが一人でできるはずがない、三人いるはずだ、というわけである。しかしこういうエッセイだと、三つの分野が完全にクロスオーバーしてくるので、やはり希有な存在だなと実感する。
それにしてもこの人、どういう頭の構造をしているのか。膨大な知識があるというだけならまだしも、これらの知識が一つのキーワードをめぐって次から次へと出てくるというところがすごい。たとえば、「ビールの季節」という一文。ビールのおいしい季節になったと説き起こし、黒澤明の『天国と地獄』で志村喬三船敏郎を自宅に誘ってビールを振る舞う場面、明治後期の日本画にビールが描かれていること、夏目漱石の作品によくビールが登場することなどが、次々に出てくる。ご本人はワープロも使わないそうだから、データベースがあるわけでもなかろう。もっとすごいのは『映画の昭和雑貨店』というシリーズ本で、一つのキーワードをめぐって次から次へと映画の場面が出てくる。この人の頭の中には無数の映画の場面がランダム検索できるようになっているのか。
川本三郎は、旅先や散歩の折に、実によくビールを飲む。旅や散歩の様子が描かれたあとに、ただ「ビールを飲む」と書かれているだけで、うまそうに飲んでいる姿が目の前に浮かんでくる。そして、ビールを飲むためにちょっと遠出をしてみたくなる。そんなゆとりが欲しくなる。川本三郎が、暇であるはずはない。多くの仕事を抱えながら、旅をし、散歩をしてビールを飲む、そのゆとりがうらやましい。そんな時間の使い方ができるようになるには、まだまだ修行がいりそうだ。

旅先でビール

旅先でビール