盛りこぼしは止めよう
経堂のある居酒屋に入った。日本酒を注文すると、写真のように薄くて小さな皿に小さなグラスを載せて持ってくる。その場で一升瓶から酒を注ぎ、そのまま盛りこぼすと、テーブルにまで酒があふれた。店員は何も言わず、平然と戻っていく。そもそも五勺程度しか入らないだろうと思われる小さなグラスだから、盛りこぼした分を含めて七勺程度。酒は一合で売るものという通念からすると、大幅に少ない。そのうえ、テーブルにまであふれさせて酒を無駄にしている。そして客は、汚れたテーブルでの飲食を余儀なくされる。
この盛りこぼしという習慣は、昭和初期には定着していたらしい。井伏鱒二の自伝的エッセイ『荻窪風土記』に、昭和二年に彼が荻窪に引っ越してきた当時のこととして、次のように書かれている。青梅街道は馬車の通行が多く、馬子たちは一膳飯屋に集まって焼酎をあおっていた。そして「焼酎は盛りこぼしのいい店が流行っていた。盛りこぼしとは受皿にあふれた焼酎のことで、これの多い店がお客に喜ばれた」と。郊外の荻窪にまで広まった習慣ならば、労働者の多い下町ではさらに早くからみられた可能性がある。
しかし現代の居酒屋の盛りこぼしは、二重の意味で間違っている。当時は盛りこぼした分がサービスだったから客に受けたのであり、もともと容積が一合よりはるかに小さいグラスから盛りこぼしても、サービスにはならない。仮にグラスの容積が一合あったとしても、盛りこぼしをサービスとしてありがたかるような客は、現代には少ない。いい加減に止めてもらいたいものである。日本酒は、冷や、燗を問わず、正一合の徳利で盃とともに供するのが正しいやり方である。大衆的な店で手間を省く場合でも、正一合のグラスまたはぐい呑みにきっちり入れてくれればいい。
ちなみにこの店、椅子が家具のようにどっしりした箱形で、座ろうとした時に膝を強く打ち付け、しばらくは息もできないくらい痛かった。無神経なのは、酒の供し方だけではないようである。
- 作者: 井伏鱒二
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1987/04/28
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