橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

「たつみ」

classingkenji2008-09-24

今日は、久しぶりに下高井戸の「たつみ」へ。これは、知られざる名店である。拙著『居酒屋ほろ酔い考現学』でも、次のように紹介させていただいた次第。

「江戸から出発する街道のひとつ目にあたる宿場町は、旅人たちが旅の始まりを祝し、また旅の終わりに名残を惜しむ場所であり、同時に町人たちが遠出をして遊びに行く場所だった。北千住や赤羽は日光街道の、新宿は甲州街道の、品川は東海道の、それぞれ最初の宿場町である。これらが東京の外周に位置する繁華街・ビジネス街となったのは、偶然ではない。
ところが、主だった街道の最初の宿場町が、もうひとつあった。それは、現在は杉並区の高井戸である。高井戸は初め、甲州街道のひとつ目の宿場町だったが、日本橋からの距離が四里(約一六キロ)と長かったことから、その中間にあった内藤氏の領地に新しい宿が設けられた。これが内藤新宿、現在の新宿である。こうして高井戸は最初の宿場町としての地位を失い、現在でも二三区内にある宿場町としては地味な存在となっている。この意味では、同じく繁華街として発展しなかった中山道の板橋に近い存在かもしれない。
しかし高井戸には、活気のある商店街がある。もっとも、宿場があった場所からは、やや南東方向にずれるのだが、高井戸宿の雰囲気を受け継いでいるのはこの商店街だと、私は勝手に決めつけている。それが、京王線世田谷線の下高井戸駅周辺に広がる下高井戸商店街である。
駅前には昔ながらの市場があり、八百屋や魚屋、肉屋などが軒を並べている。その左右に多くの商店が建ち並び、すべての買い物はこのあたりだけで事足りるだろう。映画館や古本屋、ケーキ屋、しゃれたレストランやエスニック料理店もある。そして、魅力的な居酒屋がまた多い。ここでは一軒だけ、「たつみ」を挙げておきたい。本店、駅前店と二店舗あるが、駅前店の方が行くのに便利で雰囲気も明るい。北口に出て、駅前市場を通り抜ければ、ジョッキを持った酔っぱらい猫の看板が見えるからすぐわかる。
カウンターが九席と、大小のテーブルが一〇卓ほどあるが、カウンター席から先に埋まることが多い。ともかく、メニューの幅が広い。その意味では、同じく宿場町・板橋の「北海」と似ているが、それよりさらに充実している。日本酒と焼酎がそれぞれ二〇種類くらいあるし、料理もバラエティがある。そして、安い。刺身が三九五円からあるが、どれも価格以上の値打ちがある。
客層は、地元の中高年、サラリーマン、若者たち、そして近くにある日大文理学部の学生と先生など幅広い。日大の出身で、学生時代から通い続けているらしい会社帰りの若者を見ることも多い。こんな店が近所にあったら、常連になってしまうのも無理はない。駅前市場と並んで、宿場町の流れをくむこの商店街の核ともいうべき居酒屋である。」

カウンターに座って正面を見ると、なんと私の本を紹介する貼り紙がある。上に掲げた部分のコピーが添えられている(写真)。びっくりして、思わずひとつ横の席に座り直した。毎日新聞社に二〇冊注文があったとは聞いていたが、こんな大々的に宣伝してくれていようとは。しばらく飲んでいたら、気づいた若主人が挨拶に来てくれた。紹介していただいてありがとうございます、本はもう三〇冊売れました、とのこと。三〇冊とはすごい。都心の大規模店並みの売れ方で、もしかすると新宿紀伊国屋あたりといい勝負かもしれない。こちらも丁重にお礼をする。こんな郊外の街で、私の本を読んでいる人が三〇人(あるいはそれ以上)いるとは。これも、地域の人々に愛される「たつみ」さんならではだろう。(2008.9.17)

居酒屋ほろ酔い考現学

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