橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

日暮里「いづみや」

classingkenji2008-04-14

JR日暮里駅の北口を出ると、下御隠殿橋という跨線橋がある。下を山手線、京浜東北線東北本線常磐線、東北・上越新幹線京成本線が通り、通過する列車は一日二五〇〇本にもなるという日本有数の跨線橋である。この橋から、線路の両側を眺めてみよう。西側は丘になっていて、谷中霊園と数多くの寺社、閑静な住宅地がある場所で、夜になるとひっそり静まっている。これが、武蔵野台地の西端である。これに対して東側は、坂を下りた低地に歓楽街が広がり、チェーン居酒屋や風俗の看板が乱立している。最近では、巨大で醜悪な外観の再開発ビルもできた。極めて対照的な光景だ。小林信彦は、こんな風に書いている。

とにかく、谷中に関する限り、高いマンションというものがない。日本家屋の屋根のうねりがいかに美しいか、僕はため息をつく。
日暮里駅の東側に俗悪なマンション、キャバレーなどが林立しているので、〈新しい東京〉の醜悪さがよけいに目立つ。(『私説東京放浪記』)

とはいえ、この「醜悪」な下町には、いい居酒屋がある。駅から東側に出て、道路を渡ってすぐのところにある「いづみや」。ここは、まさに下町的な大衆酒場である。左右に並行して、それぞれ一〇席ほどのカウンターがあり、左奥には四人掛けのテーブルが三つ。壁に張られたメニューを見れば、山手線の駅前とは思えぬ安さに驚くだろう。なにしろ、ビール大瓶が四五〇円、日本酒が二〇〇円、酎ハイが二九〇円。料理はフライやもつ焼き、松前漬け、おろし納豆など、いかにも大衆酒場という品が並び、多くが二〇〇円から四〇〇円程度である。酎ハイは下町風のハイボールで、客の大部分が、この酎ハイを飲んでいる。ジャンパーやウインドブレーカーなどラフなスタイルの中高年が中心で、スーツ姿のサラリーマンは少ない。一人客が多いが、顔見知りの常連がカウンターのあちらとこちらで、ときどき言葉を交わしたりする。六〇歳は過ぎたと思われる気っぷのいい女性が店を仕切っていて、客が帰り際に冷やかすと、「何いってんだい、気をつけないで帰りな」などと答える。かと思えば、疲れて眠りこけた客を、起こさずにそっとしておくなど、優しさも感じる。誰にでも勧められるタイプの店ではないが、都心に近い場所で下町風大衆酒場の雰囲気が味わえる、数少ない店の一つである。(2008.4.7)

東京都荒川区西日暮里2-18-5
11:30-21:00 不定