橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

ノンフィクションとしての居酒屋論 『下町酒場巡礼』

著者は、大川渉、平岡海人宮前栄の三人。一九九八年に正編が出版され、好評の故か二〇〇〇年に続編が出版された。現在は、文庫で入手することができる。紹介されたのは合計八十八店で、著者たちはこれを四国八十八ヵ所のお遍路になぞらえている。たしかにその旅路は求道者的でもあり、結果的に下町の酒場文化に関する優れたノンフィクション文学ともいえる作品になっている。
これは著者たちが、半ば意識的に採用した方法なのだろう。続編の「消えゆくルポライター」と題したコラムが、そのことを物語っている。児玉隆也の名作ルポルタージュ一銭五厘たちの横町』から説き起こし、ここに三ノ輪に現存する「亀島酒場」が出てくるという、居酒屋好きにはある種の感動を呼び起こさずにはおかない事実を示しながら、歩き回って自分の足で確かめるルポライターという存在が消滅したことを惜しむこの一文は、著者たちが目指すものを暗示している。
この本は、ガイドブックではない。住所も電話番号も記されていないし、詳しいメニューや値段の紹介もない。もちろん、熱意ある居酒屋好きならば、何とか探し当てることのできる程度の情報は記されているが、それを目当てに読むというのは、正しい読み方ではない。これは下町の滅びゆく酒場文化の記録なのである。現実に、続編の出版までに何軒もが店を閉じている。ここに描かれているような、酒場を舞台とした人と人とのふれあいも、また滅びつつあるものといってよい。何十年、あるいは何百年か経ったとき、時の社会史家たちは本書によって、二〇世紀東京の酒場文化を知るだろう。それだけの記録的価値を持つ本なのである。八十八軒揃えるためか、さほど特徴的とは思えない店、記述が通り一遍になってしまっている店もないではないが、全体としてみれば、本書の記録としての価値は揺るがない。

下町酒場巡礼 (ちくま文庫)

下町酒場巡礼 (ちくま文庫)

下町酒場巡礼 もう一杯 (ちくま文庫)

下町酒場巡礼 もう一杯 (ちくま文庫)