橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

立ち飲み「いこい」

次は、東京一安い居酒屋である。まるよしの裏手あたりにある、立ち飲み屋「いこい」。店内は広く、厨房を囲む大きなコの字型カウンターと、その右側に十人くらいが飲める大テーブルがいくつか。客は立ったまま酒を飲み、肴に箸を伸ばす。いかほどかの金をカウンターに放置しておけば、店の人が注文した分だけ取っていく。値段は信じられないほど安い。ビールの大瓶が三八〇円、肴は一一〇円均一、サワー類は二一〇円。近くの川口工場から直送されてくるサッポロ生ビールも三八〇円である。
実はこの店が開くのは、朝七時。そんな時間に客が来るのかと思うかもしれないが、開店間もなく満員になる。客の大部分は、夜勤明けの工員たちである。考えてみれば当然のことだが、彼らにとってこの時間は、我々にとってのアフターファイブに他ならない。都市には彼らのための店が、ちゃんと用意されているのである。
ただし今日は夜なので、客層はかなり幅広く、スーツにネクタイ姿も目立つ。店内は広いので、全体を観察するのは難しい。カウンターの客はほぼすべて見えるが、テーブルの客は私から見える範囲に限定する。カウンターの客は一二組一七人。テーブル客は多人数のグループが中心で、三組一四人である。
蒸し暑い日のこと、ネクタイをはずしてきた客も多いだろうから、ネクタイの有無を区別しないとすれば、スーツ姿の男性が一八人と過半数を占める。女性は、同年輩の男友達といっしょに来ている二〇代の一人だけ。後の一二人はカジュアル姿の男性である。もともとこの店は、仕事帰りのサラリーマンが目立つ店だったが、それでも半数を超えるほどではなかった。サラリーマンの飲む場所が安い方にシフトしているのは間違いないようだ。年代では、四〇−五〇代が圧倒的に多い。
立ち飲みがブームだという。都心には、おしゃれな雰囲気の、あるいは意図的に作り上げたレトロ風味の立ち飲み屋が増えている。しかし、立ち飲みの原点のようなこの店は、やはりオヤジの聖域である。しかし来ているオヤジの階級構成は、時間帯によって変わる。あの工員たちは、いまもこの店に通っているだろうか。機会があったら、また朝と日中に訪れてみたいものだ。(2006.6.23訪問)