橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

吉本隆明『吉本隆明の下町の愉しみ』

佃島で生まれ育った吉本隆明は、いったんは家族と共に公団の一戸建て住宅団地に移り住むものの、後には上野・千駄木あたりの下町、または地形的には山の手だが、下町的な雰囲気の濃厚な街に住み続けた。彼の下町への愛着を綴った文章は、小川哲生が編集した『背景の記憶』という著書にまとめられていて、これは優れた都市論ともなっている。この本が出版されたのは一九九三年だが、吉本はその後も、同じようなエッセイを書き続けていて、本書はこれらをまとめたものである。もともとは『日々を味わう贅沢』という題名で出版されたが、このほど題名を変え新書版として再刊された。
この本をここで紹介するのは、酒と居酒屋への言及がいくつかあるからである。たとえば、冒頭に置かれた「四季の愉しみ」という一篇。上野松坂屋の裏手あたりに住んでいた頃のこと、しばしば小さな居酒屋風の店で、子どもを間に座らせて夫婦で熱燗を飲んだという。「いい教育とは思わなかったが、こんな小さい時から酒のみの雰囲気や、両親の呑みっ振りを知っていたら、成長してぐれることはあるまいと、虫のいい勝手な解釈をしては、いつも子ども連れで飲み屋さんに入った」。ここで出てくる子どもとは、長女のハルノ宵子のことだろうか。安保闘争の熱気さめやらぬ頃の吉本に、こんな生活があったとは。
 「精養軒のビア・ガーデン」という一篇には、こうある。「いま、上野の夏で一番好きで印象深い風景はと訊ねられたら、精養軒の屋上で七月ごろから開店されるビア・ガーデンから、生ビールを傾けながら眺める不忍池の夕暮れだと答えるとおもう」。残念ながら、まだ行ったことがない。この夏には、ぜひ行ってみたい。
 晩年の枯れた境地を感じさせるいい文章が多い。酒飲みにとっても、うれしい文章が多い。

背景の記憶 (平凡社ライブラリー)

背景の記憶 (平凡社ライブラリー)