橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

『銀座と戦争』 炎上するキリンビヤホール

classingkenji2012-07-14

今日の銀座を、というより東京を代表するビヤホールは、銀座ライオン銀座七丁目店である。ここはもともと大日本麦酒の本社ビルで、その一階がビヤホールになったものである。完成したのは一九三四年で、設計者は菅原栄蔵。現在の建物は当時のままで、昭和初期の雰囲気をそのまま残す貴重な文化遺産である。
もちろん、これが銀座で最初のビヤホールだったわけではない。日本で最初のビヤホールは、一八九九年に現在の銀座八丁目(当時の地名では南金六町)で開店した「恵比寿ビヤホール」である。銀座で広く知られたもうひとつのビヤホール(というよりビールを飲ませる酒場)は、現在の銀座五丁目(当時の地名では尾張町)、サッポロ銀座ビル(日産ギャラリーのあるビル、といったほうが分かりやすいか)の場所にあった「カフェーライオン」で、多くの芸術家・文学者に愛され、作品にもしばしば登場する。たとえば徳田秋声の「縮図」には、「尾張町の角に、ライオンというカフエが出来、七人組の美人を給仕女に傭って、慶応ボオイの金持の子息や華族の若様などを相手にしていた」とある。戦後も同じ場所でビアホールが営業していたが、のちに建て替えで地下に移り、現在は「銀座ライオン銀座五丁目店」となっている。
これらに比べると、あまり知られていないが、「カフェーライオン」の向かい側、現在は三愛のある場所には「キリンビヤホール」があった。戦前は大日本麦酒麒麟麦酒が二大麦酒メーカーだから、銀座の中心部の交差点の一等地に両雄が並び立っていたわけである。
ところが「キリンビヤホール」は、一九四五年一月二十七日の銀座空襲で炎上する。写真は、菊池俊吉が「ライオンビヤホール」の二階から撮影したもの。平和博物館を創る会という団体が編集した『銀座と戦争』という写真集に収められている。この写真集は、一九三七年から一九四九年に撮影された銀座および周辺の写真を三六四枚収録したもので、銀座の好きな人にはお勧め。一九八六年に初版、一九九三年に増補版が出ている。初版は一〇〇〇〇円、増補版は一八〇〇〇円と高価だが、初版のほうは、古本がかなり安価で売られている。追加された内容はわずかなので、こちらを買うのがいい。

銀座と戦争

銀座と戦争

銀座と戦争

銀座と戦争