橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

浅草「神谷バー」

classingkenji2008-04-21

ときどき、どうしても行きたくなるのが、この店。現在の建物は一九二一年に建てられたもので、関東大震災東京大空襲で焼けたものの、そのたびに修復して使われて続けている。一階が「神谷バー」、二階が「レストランカミヤ」、三階が「割烹神谷」になっているが、居酒屋好きならば、やはり一階に行くべきだろう。最初のオーダーの分だけ入り口でチケットを買い、席に座って店員に渡す。追加オーダーは、座席でそのつどチケットを買うというしくみになっている。大小のテーブルが多数あるが、一人客も適当に相席でテーブルに座る。今日は、デンキブランとアサヒスタウトを飲むことにした。
この店では、やはりデンキブランが外せない。ブランデー、ジン、キュラソー、薬草などをブレンドしているとのことだが、レシピは秘伝で見当もつかない。六〇ミリリットルのグラス入りを二六〇円で売っているくらいだから、高級な原料など使っているはずはないのだが、不思議に美味しい。作家の神山圭介は、浅草は活動写真やオペラなど、西洋の文化を換骨奪胎して発展させた場所であり、電気ブランもそれに通ずるのだと指摘している。なるほど、これは浅草オペラの味なのだ。
浅草オペラとは、一九一七(大正六)年ごろから始まった、日本の音楽史上に特筆すべきオペラ公演である。スッペ作曲の『ボッカチオ』で、「ベアトリーチェ」を「ベアトリ姐ちゃん」、オッフェンバック作曲の『ジェロルスティン大公妃殿下』を『ブン大将』といいかえるなど、通俗的な演出で人気を集め、さらには「コロッケーの唄」で有名な佐々紅華作曲『カフェーの夜』などの和製オペラも作られて、小僧さんや職人から知識人まで、幅広い聴衆がおしかけた。アナーキスト大杉栄、作家の川端康成今東光、文芸評論家の小林秀雄河上徹太郎、指揮者の近衛秀麿も、浅草オペラのファンだったという。かたや酒屋の小僧までが、『カルメン』の「ハバネラ」を口ずさんでいたというから、本物だ。今日の日本では、オペラは経済的に余裕がある人しか見ることのできない、いや、そもそも関心をもたない芸術に成り下がっている。一九二三(大正一二)年の関東大震災で壊滅し、ついに復活することがなかったが、その伝統が受け継がれなかったのは惜しい。せめて、この店でデンキブランを飲みながら、当時に思いをはせることにしよう。観光地の店なので年中無休かと思ったら、火曜は休み。ご注意を。(2008.4.9)

台東区浅草1丁目1番1号 
11:30-22:00 火休