橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

上板橋「もつ九」

classingkenji2007-03-11

この店は、私がこれまで最も多くの時間を過ごした居酒屋である。この先、それ以上の時間を過ごす居酒屋が現れることはあるまい。なにしろ、板橋に住んでいた二〇年ほどの間、最初の数年間は除くと、平均して週一回くらいは通っていた。行った回数は、五〇〇回を超えるだろう。カウンターが五席と、二−四人掛けのテーブル席が五つ、そして八人で周りを囲めるテーブル席が一つという小さな店だが、メニューが多く、しかも安い。毎日変わる突き出しを数種類の中から選ぶことになっており、これがまた楽しい。本日の突き出しは、鯖味噌煮、ねぎ酢味噌、ほうれん草ごま和え、らっきょなど。私はねぎ酢味噌を選ぶ。串焼きは焼きとんと焼き鳥の両方があり、焼きとんは九〇円、焼き鳥は一〇〇−一二〇円。日替わりのメニューには、鰺姿造り四五〇円、鮪のトロブツ五八〇円、するめいか刺三八〇円など。刺身と焼きとんを居酒屋の標準メニューとする私の性向は、ここで作られたものである。焼きとんは、たいへん美味しい。カシラは経堂の灯串坊を凌駕し、シロは肉薄する。今日のトロブツはメジマグロで、これも美味い。他にも揚げ物、焼き物、炒め物といろいろある。ビールはサッポロ、キリン、アサヒと三種そろっていて、大瓶が五五〇円。サワー類は三八〇円が多い。日本酒は、岩手のあさ開を置く。焼酎のボトルは二階堂で、たしか二一〇〇円。ここでは最初にビールを飲み、次にボトルを出してもらってホッピーで割って飲むのが習慣だった。友人たちと飲み、あるいは一人で時を過ごした。辛いとき、不愉快なことのあったとき、ここで何度慰められたか分からない。論文のゲラ刷りが出ると、ここでグラスを片手に校正した。アイデアに詰まると、メモ用紙を持ってここに座った。この店から、多くの論文が生まれ、世に出て行ったのである。
主人は一時期、この店を娘婿に任せ、練馬で別の店をやっていた。それが契約更新の時に家賃で折り合わず、最近になってこの店に戻ってきたとのこと。娘婿も腕は悪くなかったが、やはり主人にはかなわない。戻ってきてからこの店は以前にも増してメニューが増え、味も良くなった。もともと日常通う普通の居酒屋で、他の場所に住む人にまで広く勧めるような店ではなかったが、こうなると遠くからでも行く価値があるように思えてきた。客は九割以上が常連で、地元の自営業者、労働者、ネクタイ姿のサラリーマンなどが肩を並べて飲む。「センポ・スギハァラ」で話題になった劇団銅鑼の面々も常連。ここでは、いろんな常連客と知り合った。クリスマスパーティーや忘年会、新年会などには常連客が二五人ほど集まる。今日も顔見知りが二人ほど。入り口は暗く、最初は気後れするかもしれないが、思い切って入ってみると良い。上板橋の北口を出て、「村さ来」の角を入れば灯りが見える。(2007.3.10)