橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

東武練馬「大衆割烹 春日」

classingkenji2007-03-10

東京二三区を、都心・東部・西部と三つに区分することがある。東京都の統計の上では、都心は千代田・中央・港・渋谷・新宿・文京・豊島・台東の八区。東部と西部がこの周りを取り囲むわけだが、その境界はどこかというと、板橋と練馬の間である。この二つの区は、もともと板橋区というひとつの区だったが、六〇年前に練馬区が分離した。今では二つ合わせると人口が一二〇万人を超えてしまうから、分けておいたのは正解だった。
しかし板橋と練馬には、行政上の区分というだけではない違いがあって、ここで東部と西部を分けるということにはそれなりの理由もあるように思われる。このことは、その境界線あたりを歩いてみれば分かる。たとえば、都営三田線に乗って志村三丁目で降りてみるといい。ひとつ前の志村坂上を出るとまもなく電車は地上に出る。つまりここで、電車は武蔵野台地を抜け出したのである。すぐ左側に、断崖が見えてくる。改札を出たら右へ進み、しばらく歩くと、断崖に沿って走る首都高五号線に出る。ここが東京東部の果てである。首都高の東北側は、最近ではずいぶんマンションが増えたが、倉庫と工場が多く、潤いのない町並みが広がる。断崖の向こうはしばらく複雑な地形が続くが、これを超えると練馬区になり、次第に落ち着いた住宅地が姿を現してくる。私は三年前までの約二〇年間、ちょうどこの断崖を切り開いて作られたサンシティという団地に住んでいた。断崖のあたりに一四棟もの建物があるわけだから、当然、標高差がある。地図で確認すると、団地の入り口にある商店街のあたりは七メートル、いちばん高い場所では二六メートルだった。面白いもので、こうなるとひとつの団地の中に「下町」と「山の手」のような違いが生まれてくる。私の住んでいたのは入り口に一番近い住棟だったが、何だか下町のような雰囲気で、高齢者も多く、サンダルで下のスーパーまで買い物に出かけたりする。ところが高台にある住棟は、山の手高級住宅地のような雰囲気があって(実際、住戸の値段も高かった)、奥様たちが化粧して買い物に出かける。
私はこの断崖の両側の歩いていける範囲の居酒屋や料理店を、十数年にも渡って足しげく探訪したが、東京の二つの文化の境界線を体験するような面白さがあった。今回、思い立って行ってみたのは、断崖の上の方で、駅でいうと東武東上線東武練馬と上板橋になる。東武練馬の駅近くの練馬北町商店街は、旧川越街道。現在の川越街道の起点は池袋だが、当時は下板橋宿(現在の板橋二丁目あたり)で中山道から分岐していた。そしてこの商店街の真ん中あたり、東武練馬から少し上板橋方向へ寄ったところが、かつて下練馬宿のあった場所である。ご多聞に漏れずシャッターの降りたままの店や、マンションに姿を変えた店も多いが、それでもけっこう活気のある商店街である。そして駅のすぐ近くにあるのが、「大衆割烹 春日」。目立たない作りだが、入り口の横に品書きがたくさん貼り出されているのですぐ分かる。中に入ると、左側にカウンターが八席、右側に四人掛けと六人掛けのテーブルが四卓。奥には、ちょっと広めの座敷がある。カウンターの中では紺の作務衣を着た板前が三人立ち働き、フロアにも店員が四人。壁に張り出されたメニューは種類が多く、季節の美味しいものを揃えている。ここまではまさに割烹なのだが、違うのは値段で、大衆酒場並みである。ビールはサッポロ黒ラベル大瓶が五二〇円、大生が七八〇円、焼酎は白波、いいちこ、二階堂などが一杯三二〇円、ボトルは一七五〇円という安さ。日本酒も久保田、〆張鶴、獺祭、立山など一五種類あり、今日飲んだ獺祭はほぼ一合入ったグラスで五二〇円、酔仙や真澄なら四二〇円だ。料理も、鍋物を除くといちばん高いのが中トロと蒸しあわびの一〇五〇円で、明石の蛸五五〇円、鰺のたたき・塩焼き・竜田揚げなどが五五〇円、ふぐ竜田揚げ五〇〇円、ブリ大根三七〇円など、どれも安い。しかも、何を頼んでも美味い。鰺の南蛮漬け(五五〇円)は、大振りのものを一匹、骨も頭も食べられるようにからりと揚がったものに、玉葱のスライスが山盛りにされて出てきた。自家製の鯖干物(五〇〇円)は、酒塩に漬けてから干し、色つや良く焼き上げた逸品。この店は、名店といっていい。
土曜日だけに、カジュアルな服装のグループ客が多い。五〇代男性四人組は、楽しそうに世間話をしている。老若男女八人組は、親子三世代だろう。同じく、五〇代と二〇代の親子四人組も。カウンターにはフリースを着てハンチングをかぶった六〇代男性。平日はスーツにネクタイ姿組もけっこう見かける。(2007.3.10)