橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

根津「車屋」

七月の二五日、二六日、二八日と三日間、東大文学部で集中講義。東大も教育熱心になったもので、なんと授業時間が六限まである。予定では二限から六限までだったが、六限を時間割通りにやると、終了はなんと八時二〇分になる。こんな時間まで授業するわけに行かないし、学生もかわいそうなので、五限を少々延長して七時過ぎに終了ということにする。終わった後は、当然のように居酒屋へ。大学院生の頃に何度か行った、根津の「車屋」をほぼ二〇年ぶりで訪れることにする。
見るからに、下町の古い居酒屋という趣だが、店内はかなり広い。一階は左側にカウンター、右側にテーブル席。外国人の客が来たときなど、根津・谷中近辺の町並みを案内してからここに連れてくれば、喜ばれること間違いなしである。飲み物や料理の値段は、大衆酒場ばかり行ってる私の感覚ではやや高いが、都心の居酒屋としては普通だろう。旬の鱧を肴にビールを飲みながら、店内を見渡してみる。
席は八割方埋まったというところで、客は七組一九人。男性が一一人、女性が八人と、女性比率がかなり高い。もっとも外国人四人家族の、一〇歳を超えたところと思われる女の子二人は数に入らないかもしれないが。男性はオフィスから直行した人が多いようで、七人までがスーツにネクタイ姿。このあたりは中小企業のオフィスが多いうえに東大まであり、しかもこの店は駅から歩いて一分という場所だから、仕方のないところだろう。しかし親子らしい客が、父娘、母娘とそれぞれ一組ずついるなど、地元に住む人がちょっとくつろぎに、という雰囲気もないではない。外国人一家は、近くに住んでいるのか、それとも観光に来たのか。
森まゆみが地元の古老から聞いたところによると、下町の根津は金持ちのいない庶民の町で、さつまいもや大根、シャケをよく食べていた。そこで、根津から嫁にいったのがシャケなんか夕飯につけると『ネコまたぎ』、出がわかると姑にいじめられたとか(『不思議の町 根津』、筑摩書房)。とはいえ根津は、由緒正しい下町。維新後の下町、ましてや震災後の下町などとは歴史の重みが違い、今では地価も家賃も大違い。下町とはいっても本郷・西片とセットの下町だから、この店も、隅田川東岸の大衆酒場とは比べるべくもない。いくら下町情緒が濃厚とはいっても、この値段では遠出する気も起こるまい。あくまでも、地元在勤・在住者の店である。(2006.7.25訪問)