橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

鯉とうなぎの「まるます家」

千住と赤羽は、双子のような町である。いずれも東京23区の東北部に位置し、交通の要所。千住は日光街道の宿場町だが、赤羽の少し先の岩淵には、日光御成街道の宿場があった。将軍家専用の街道だったが、ふだんは一般の通行にも使われ、千住ほどではないもののそれなりに賑わったようだ。
繁華街は駅の東側の旧街道付近に広がっている。駅から東側へ出て、すぐ左の信号を渡ると、赤羽一番街商店街がある。戦後の闇市の雰囲気を残すこの商店街には古い居酒屋が多く、探索していて飽きない。しかし、最も知られているのは、やはり「まるます家」だろう。道に面して鰻の焼き場があり、煙が外に流れて食欲をそそる。軒先には提灯が並び、看板に「鯉とうなぎのまるます家」と大書されているから、すぐに見つかる。店内の大部分を占めるのは、二つつながったコの字型カウンターで、向かって左側には小さなテーブル席が三つ。実は二階に、昭和を感じさせる懐かしい雰囲気の座敷があるのだが、なかなか入れてもらえない。
ここに来ると、まず頼むのはサッポロラガービール、そして鯉の洗い。鯉の洗いはたったの三五〇円で、臭みも気にならず、十分美味しい。このほか、鯉こく、鯉の甘煮、そして厚切りにした鯉刺しがある。うなぎの蒲焼きは、八〇〇円、一〇〇〇円、一二〇〇円、一五〇〇円の四種類で、一人で食べるなら一〇〇〇円のものがおすすめだ。このほか、刺身、酢の物やぬた、揚げ物、鍋物と、メニューはきわめて豊富。この店、実は朝九時から開いている。こんな時間に客が来るのかと思うと、近所の商店街のご隠居さん風の客が次から次へとやってきて、けっこう満員に近い状態になる。
カウンターの右側に座った私からはテーブル席がよく見えないので、カウンターの客だけを観察することにする。時間は金曜日の午後七時ごろ。
客は全部で二二組、三〇人。男性が二六人と圧倒的に多いが、カップルが四組いて、女性が四人。カップルが比較的多いのは、この店の特徴だろう。若いカップルが一組いるが、他の三組はいかにも地元自営業者夫婦の雰囲気である。男性の一人客が一四人と、組数でいえば三分の二を占める。スーツにネクタイの男性は七人で、全体の四分の一以下と少ない。スーツにネクタイの客はカウンターの左半分に集中しているが、これは会社帰りで駅から歩いてきた客は、駅よりになる左側の入り口から入ることになるからだろうか。他の客の多くは地元の、おそらく自営業者か労働者、または年金生活者で、駅に近い入り口から入る必然性はないわけである。
この店には「まるます家だけのお約束 酒類は一人三杯まで」という張り紙がある。実際には、よほど酔っぱらっていないかぎり断られることはないのだが、たしかに酔客はいない。何年か前のことである。一目で見て精神を病んでいることがわかる浮浪者風の酔客が入ってきて、酎ハイを一杯飲んだ。お代わりを注文したのだが断られ、その男は無表情のまま、金を払わずにフラフラと外へ出ようとした。店の人が、「お客さん、お勘定!」と声をかけるのだが、そのまま振り返りもせずに立ち去っていく。居合わせた客の一人が「警察に言った方がいいよ」と言うのを聞いて別の客が、店の人に「これで払ってやって」と、千円札を渡す。とくに知り合いというわけではなさそうで、心を病んだ地元民をさりげなくかばってやろうという思いやりに、ちょっと感動した。そんな店である。(2006.6.23訪問)