橋本健二の居酒屋考現学

居酒屋めぐりは私の趣味だが、同時にフィールドワークでもある。格差が拡大し、階級社会としての性格を強める日本社会の現状を、居酒屋に視座を据えて考えていきたい。日々の読書・音楽鑑賞の記録は、「橋本健二の読書&音楽日記」で公開中。社会学専攻、早稲田大学人間科学学術院教授。

「大はし」

北千住駅から西口に出て大通りをしばらく歩くと、通りは南北に延びる商店街と交差する。この商店街は旧日光街道で、宿場町の雰囲気を色濃く残している。そして北側、つまり駅から行くと右に折れた方のサンロード商店街に「大はし」がある。北千住で最も知られた居酒屋であり、東京全体でも最も知られた居酒屋の一つといってよい。「名物にうまいものあり北千住 牛のにこみでわたる大橋」と、店に入った正面に掲げられた張り紙にあるとおり、ここの名物は牛の煮込みである。煮込みといっても、内臓ではなくカシラの部分の肉を煮込んだもので、大鍋で豆腐とともに湯気を立てる。大鍋といっても、直径こそ六〇センチほどあるが、平たい形をしていてさほどの容量はなさそうだ。にもかかわらず、入ってきた客の大部分が注文し、しかもお代わりする客も少なくないなかで次々に鍋に投入される肉の切れ端が、なぜあれほど短時間で軟らかくなり、しっとりと味を含んで供されるのか。以前から不思議に思っているが、まだその秘訣は分からない。
私が訪れたのは、月曜日の一九時ごろ。いつもは混み合う時間だが、入り口脇の椅子に座って順番待ちをしている客が三人しかおらず、五分ほどで座ることができたのは、日本チームが惨敗することになるワールドカップのオーストラリア戦を、三時間後に控えていたからだろう。席は、片側の半分ほどが焼酎のボトルを置く棚になった、J字型カウンターの左側、短い方の真ん中あたりである。
この店は、もちろん煮込みもいいが、季節の魚介類を使った料理や刺身が美味しく、しかも安い。多くの客が飲んでいるのは、下町ではおなじみの金宮焼酎を梅シロップや炭酸で割ったものだが、私はビールを大瓶でとることにした。
カウンターの右側にはテーブル席がいくつかあるが、私からは見渡せないので、カウンターの客だけを観察することにする。客は全部で一四組、二四人。一人客が五人(私を加えれば六人)、二人客が一六人で、あとは三人グループが一組いるだけというのは、カウンター席としてはふつうだろうか。男女構成は、男性二二人、女性二人で、圧倒的に男性が多い。男性のうちスーツにネクタイ姿は八人で、約三分の一。年齢分布は、二〇才代三人、三〇才代四人、四〇才代六人、五〇才代八人、六〇才代三人と、かなり中高年に偏る。特徴的なのは、スーツにネクタイ姿の大部分(六人)が四〇代以下だということで、五〇歳代以上に限るとスーツにネクタイ姿は八人中二人に過ぎない。またスーツにネクタイ姿だけのグループは三組五人で、スーツにネクタイ姿とカジュアル姿の混成グループがカジュアル姿だけのグループと同様、店になじんで大いに盛り上がっているのに比べると、ややよそ者の雰囲気がある。交通の要所だけに、埼玉・千葉方面に住むサラリーマンが途中下車してやってくることも多いだろうが、通勤路でもないのにわざわざ電車で通ってくる居酒屋好きもいるはず。つまりこの店の客層は、地元の中高年(おそらく大部分は自営業者層)を中心に、やはり地元の労働者階級と、途中下車して、あるいはわざわざ寄り道してやってくる居酒屋好きの新中間階級男性を加える形で成り立っているとみてよさそうだ。新橋の「羅生門」を制覇した若い女性たちも、ここまでは進出してこないようである。